からだからの警告 3

わたしのオフィスにきた患者は、受付で助手の歓迎を受け、まず用紙に記入させられます。


住所、氏名、年齢、電話番号、生年月日のほかに、いちおう簡単な病歴も書いてもらいます。


わたしはあらかじめその記録に目をとおし、患者が治療室にはいってくる前に、その人の概略を把握しておきます。


・・・ところが、用紙に記入したとおりのことを重ねてしゃべる人はほとんどいません。


ですから、わたしもあらためて病歴や生活歴についてたずねます。


書かれた記録と語られた内容とのあいだの矛盾が、ときにはいいヒントになります。


わたしは生命エネルギーが午前中に体内にはいり、午後にでていくと確信しているので、患者に生まれた時刻をたずねることにしています。


・・・というのも、夜に生まれた人には治療に強い刺激が必要だからです。

からだからの警告 2

その日を覚えておけば、とつぜん具合が悪くなったときに、カレンダーをたしかめるだけで、よけいな心配をしなくてすみます。


よけいな心配をしなければ、苦痛に耐えるのも楽になるというわけです。


さて、ここでオステオパシーがトラウマ問題にどう対処しているのかを見ていきましょう。


まず、わたし自身のやりかたを紹介しましょう。


わたしはそろそろ引退するつもりでしたが、患者からの強い要望を拒否することはできなかったのです。


助けを必要としている子どもたちに、どうしてもノーといえなかったのです。


正直なところ、おとなの患者もことわりきれないことが多いのです。


つい、わたしで役に立つなら、と思ってしまうのです。


からだからの警告

からだがなんらかの警告を発してくれても、それが悪化の徴候であることはめったにありません。


・・・この症候群のあらわれかたはいろいろです。


多くの人はそれにまったく気がつきません。


症状がごく軽く、そのままやりすごす人も多いのです。


そして、最初の発病と同じ日付の日に似たような症状を軽度に自覚する人もいれば、わたしのようにかなり激しい症状を呈する人もいます。


なぜそれが起こるのかはわからないのですが、おそらくは、最初のときのトラウマが神経系か筋肉系に刷りこまれているのでしょう。


わたしの場合も、なんらかの原因で神経系か筋肉系のいずれかに刷りこまれていた記憶が呼びもどされたのだろうが、いずれにしてもそれはわたしのからだが必要としていたことでした。


・・・そうした記念日は発病の1年後にも、5年後、10年後にも起こりえます。

進行するアメリカ病 4

これと同時に、アメリカが世界市場でかつて圧倒的な優位を占めた輸出製品にも、かげりが見えてきました。


その代表が航空機です。


一時はボーイングやダグラスなどの大型アメリカ機が、世界の空をわが物顔に飛び回ったが、いまではヨーロッパのエアバス・インダストリー社の旅客機がシェアに大きく割り込んできています。


同社は設立以来6年で、世界の民間航空機市場の21%と食いこみ、1960~80年の間にアメリカのシェアは70・9%から52・2%へと落ちています。


伝統的に輸出に強い産業でも、同様にその低落ぶりが目立っています。


たとえばプラスチック製品とか医薬品のようなR&D志向型産業も同様です。


また世界最強といわれるコンピューターでも、日本の激しい追い上げを受けています。


このほか各種機械類でも、アメリカは激しく世界市場でその地歩を奪われつつあります。


・・・このような主要産業における国際競争力の地盤沈下は、アメリカの経済や社会や技術に大きな問題を惹き起こしています。

進行するアメリカ病 3

とくに注目すべきことは、1970年代に入ってドルの価値が40%も切り下げられたにもかかわらず、輸出が低下したことです。


また目立ったことは、アメリカが世界に誇る自動車産業や先端技術分野で、外国製品とくに日本に攻めこまれたことです。


1960年には国内市場で95・9%を占めていた自動車は、1980年には72・9%に落ちこんでいます。


政府の産業保護政策で辛うじて大きな落ちこみを免れている鉄鋼や衣料品を除けば、主要製品は同様に、シェアを著しく外国に奪われています。


家電は94・4%から53・1%へ、靴は97・7%から66・6%へ、繊維機械は93・4%から53・1%へ、電卓は95%から57・1%へと・・・


いずれもその低下の幅は大きいものです。


このなかでも家電製品の落ちこみは目立っています。


アメリカ企業はすでに、ラジオでは自国市場における生産から撤退していますが、カラーテレビの場合も、その多くが現地生産の日本メーカーによるものであることは、周知のとおりです。

進行するアメリカ病 2

製造業の一般労働者に限定すると、落ちこみはもっと急激となります。


彼らの実質賃金は1979年に3・4%、80年には5・5%も、連続して落ちこみました。


これに対し1970年代ははげしくインフレが高進したから、食費や燃料・住居費の値上がりで、彼らの生活水準は、豊かさへの期待とは反対に、はげしく低下しました。


アメリカ主要産業で、ひとつは国内市場の、もうひとつは世界市場における、それぞれのシェアの、最近20年間の変化を示しているものをみるとわかります。


ヨーロッパや日本の経済がすっかり立ち直った1960年当時でさえ、アメリカは依然として先進国全体の製造業輸出の4分の1以上を占め、国内市場の98%を支配していました。


・・・しかし、それ以来20年間、アメリカ工業製品の競争力は市場シェアの低下とともに下降線をたどり、アメリカ国民の生活水準の、いっそうの相対的な落ちこみをもたらしたのです。

進行するアメリカ病

1960年代終わりから70年代にかけて、アメリカ経済は急速に悪化の一途をたどり、根本的に改善されないままに1980年代にまで及んでいます。


そこでこの、"アメリカ病"とまでいわれるようになったアメリカ経済の病状に触れておくことにしましょう。


しかし、その病根は根深く、おそらく後世の史家のみがよく判定し得るところでしょう。


いまはただ学者や評論家などがおびただしく書いたカルテのなかでこれをまさぐるというのが偽らざるところです。


まず第一にあげねばならない症状は、今日の豊かさから明日のそれへと期待感を戦後抱きつづけたアメリカ国民の楽観主義が裏切られはじめたということです。


ことにオイル・ショックの前と後とでは、国民の生活水準はきわ立って大きく変化しています。


1966~73年の間、国民1人あたりの実質可処分所得は21・5%増加したのに対し、1980年までの次の7年間にはわずか1・5%の上昇にとどまっています。

日本の動き 3

20歳前後で血気盛んな頃ですから、けんかもよくしたそうですが、今考えると本当によい時期だったそうです。


3年足らずでしたが、祖父の人生には今もなお大きな比重を占めています。


密度の高い青年期の一コマだったのですね。


今では、当時の満州進出はみんな「侵略」のようにいわれますが、こういう交わりがあったということも、記憶されておいてほしいと思います。


こうした次第で、祖父には中国に友人がいっぱいいます。


ほとんどが立派になって、党や官庁のお偉方や大学の先生が多いそうです。


中国では、祖父らの世代で一番のインテリだから当然でしょう。


この大学の教育も特殊でした。


敷地が65万坪もあったそうです。


山地の65万坪ではありません。


平地の原っぱの65万坪です。


そして、いわば全人教育だったのです。


例えば、大学ですから、教室に座って聴く講義はありますが、それが完全にできても3分の1の成績にしかなりません。


次の3分の1は体を動かすこと、当時は軍事教練があり、また武道があったそうです。


当時ノルディックポールなどのエクササイズはなく日本の武道だけでしたが、全員がそれをやったそうです。


剣道、柔道、合気道のどれかをやるのです。


馬もあり、農業もありました。


訓練のために農業をやるのです。


飛行機もあったようですが、祖父たちは飛行機まで進めず、グライダーで終わったそうです。


そういう体を動かす訓練が3分の1でした。


最後の3分の1は、寮生活だったそうです。

日本の動き 2

別の一人は中国人で、最近まで大連の水産大学の学長をしていたそうです。


もう一人はモンゴル人で、今は内蒙古自治区で学校の先生をしているようですが、連絡がとれず文通をしていません。


さらにもう一人はロシア人でした。


祖父はこのロシア人学生と一番親しかったそうですが、今、消息はわからないそうです。


死ぬまでにはなんとか一度会いたいと思っています。


彼がどこにいても私は出かけて行くつもりですが、生死のほどもわかりません。


当時のロシア人の友人で何人かは消息がわかったし、戦後会った人もいるのですが、彼だけはわからないのだそうです。


・・・もともと彼はハルピンにいましたが、ハルピンにいたロシア人は、ほとんどがオーストラリアかアメリカに渡ったそうで、少数の者がロシアに帰ったようです。


いろいろと随分探してみましたが、まったく消息がつかめないのです。


どこかで生きていてくれればよいが、といつも言っています。


とにかく、死ぬまでにはどうしても会いたい級友なのですね。


・・・この5人、みんな民族が違いますが、同じ生活をやっていたのです。

日本の動き

「アジアの解放」ということは、ずっといわれてきていました。


アジアは、ほとんどが欧米の植民地あるいは半植民地であったので、それを解放するのだと唱えられてきました。


太平洋戦争も、そういうことで正当化されていたわけです。


今日ではすべてが暴かれていますが、当時、真実そのように信じていた若者がたくさんいたこともまた事実です。


余談になりますが、私の祖父もアジアの解放の戦いを信じていた一人でした。


創価学会 仏壇に向かって手をあわせる祖父の後姿をよく見かけたものです。


太平洋戦争が始まってほどなくの頃、祖父は旧満州(現在の中国東北部)に渡って建国大学という大学に入りました。


最近もときどき「建国大学」という名が新聞に載るが、これは韓国の大学であって、祖父たちの学んだ建国大学とはまったく関係はありません。


満州のその大学は、旧満州国の首都、新京(現在の長春)にありました。


非常に特殊な大学で、一学年180人ぐらいのうち、日本人学生はその半分足らずだったそうです。


あとの半分は大部分が中国人。


それから少数の朝鮮人とモンゴル人とロシア人がいたそうです。


5つの民族の学生がいたわけです。


しかも全寮制で、予科3年、本科3年の6年間、みんな一緒に寮生活。


本科に入ってからの祖父の部屋は5人部屋でしたが、そのなかで純粋の日本人は祖父だけだったそうです。


一人は神戸出身の朝鮮人で、今は釜山にいるそうです。